中村半次郎(桐野利秋)天保9年(1838年)12月~明治10年(1877年)9月24日

天保9年(1838年)12月、鹿児島郡吉野村字実方で城下士の中村与右衛門(桐野兼秋)の第三子として生まれる。幼名を晋作。始め中村半次郎と称し、後に桐野利秋と名乗った。
文久2年(1862年)島津久光に随って上京。尹宮(朝彦親王)附きの守衛を務めるなど諸国の志士たちと交際し、家老・小松帯刀ら藩の重臣から重用されるようになった。薩長同盟後は、さらに両藩の親和のために活動し、木戸孝允、品川弥次郎などと交際を重ねた。

戉辰戦争(明治元年、1868年)では、城下一番小隊に属して伏見の戦いで御香宮に戦い、功を以って小隊の小頭見習いを努めた。東夷大総督府下参謀・西郷隆盛が東海道先方を率いて先発東上した際、城下一番小隊長に抜擢されて静岡・小田原を占領した。後に大総督府直属の軍監に任じられた。明治新政府では陸軍少将に昇進した。

明治6年(1873年)10月、明治六年の政変で西郷隆盛が下野するや、辞表を提出して帰京した。明治10年(1877年)から始まった西南戦争では、西郷の側近として活躍したが、9月24日、政府軍が城山を総攻撃したとき西郷が被弾し、やがて自決。半次郎は塁に籠もって勇戦し、額を打ち抜かれて戦死した。享年40歳。

西郷隆盛は「彼をして学問の造詣あらしめば、到底吾人の及ぶ所に非ず」と評している。後年、勝海舟は「(西郷の)部下にも、桐野とか村田とかいうのは、なかなかの秀才であった」(「氷川清話」)、大隈重信は「西南の役に大西郷に次いての薩摩の騎将桐野利秋、彼はすこぶる才幹の男であったが、これがやはり派手であった。身体も大きく立派なら容貌態度ともに優れた男であったが、着物をぶざまに着るようなことはせず、それも汚れ目の見えぬ綺麗な物づくめであった」(「早稲田清話」)と評している。
映画『半次郎』、パンフレット資料より抜粋。